「 日本はアジアに生きる国_PART1」自分の留学先を探しに….単身で渡航した中学2年生のドタバタ体験


2009年12月6日記

このブログは、筆者、板庇 明が中学2年生だった、1981年時の体験談です。

「 日本はアジアに生きる国_PART1」

先日(2009年)、
友人から「中学生の子どもに英語以外の
外国語を習得させたいが
将来役に立つ言語は何だろうか?」と質問された。

間髪いれず、「中国語(北京語)」と返答した。

直後、自分が中学2年生のころ(1981年)を思いだした。

ある日、突然、父親が、「お前が大人になるころ
には、中国が世界一の大国になっているだろう。
中国語をすぐに始めなさい。そのころには、
日本人は英語なんかペラペラになっているから、
希少価値にならない。すぐに探せ!」

と言い放った。

その後、母親が、「京大(京都大学のこと。近所
だった)の留学生会館を訪ねなさい。
中国語ができる留学生が必ずいるから
頼んで教えてもらいなさい。」

翌日、ぼくは留学生会館に飛び込み訪問した。

<続く>




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「教育」=「EDUCATION」とは?

「教育」に関する所感を記します。

まず、ぼくの柄に合うか合わないかは棚上げして(笑)、
「教育」という日本語の解釈から入ります。
「教育」とは文字通り「教え育てる」という意味です。
「教育者」とは「教え育てる人」という意味になります。

ぼくは、小学生のころから「教育(者)」ということばに
何となく違和感を抱いていました。

その後、数十年が経って、ある知的な経営者と出会って議論していて、
その違和感の原因がわかりました。
まさに氷解した瞬間でした!!

「教育」は元来、明治初期に森有礼(初代文部大臣)や福沢諭吉ら西洋通が
英語の「EDUCATION」を訳して日本語にしたことばだったのです。
この訳語が良くなかったのです
国家主義体制だったので、「教え育てる」という日本語にせざるを 得なかったのかもしれませんが….

「EDUCATION」の原語(ラテン語)は「EDUCE」です。
この意味は、「潜在する能力を引き出す」と
「演繹する」(一般的な問題から特異な結論を導くこと)なのです。
この意味を「人の教育」に当てはめると、
前者は「対象者の潜在能力を引き出す」に なりますし、
後者は「対象者の現わす言動から、潜在している特異な能力を見出す」
となると解釈 します。
「EDUCATION」ということばは、もともと「個々の能力を引き出す、開発する」
という意 味だったのです。
つまり「教育」ではなく「(潜在)能力開発」と訳すべきだった、
に尽きるのです。

もしそう訳されていれば、
教育者、教師や先生と呼ばれる人は「能力開発者」
教育観は「能力開発観」
教育政策は「能力開発政策」
学校は「能力開発センター」
文部省(教育省)は能力開発省
教育理念は「能力開発理念」
人材教育は「人材能力開発」
教育産業は「能力開発産業」
という日本語で表記されていたことになるのではないでしょうか。

「うーん、まだピンとこない」という方のために、
ここからもっとしつこく続けますと
(この瞬間、読者満足を全く考慮していない 何ともいえない自由を感じている一方的執筆者としての板庇がいます…)
「親の自分のこどもへの教育」は「親の自分のこどもへの能力開発」
「教育施設」は「受講者の能力開発を促進するための施設」
「教育資金」は「能力開発機関が自分のこどもを能力開発してくれることに
対する対価を支払うための資金」
「教育立国」は「国民個々の能力開発に最も重きを置く国家」
になると、ぼくは解釈します。

さらにしつこいですが、
最後に一般用語の「教育」を「能力開発」に換言して記します。
以下は、人間界の法則に近いと思っています。
すべての人間は、この世に生誕して、最初は一方的に能力開発され、
次にさまざまな 場面で誰かを能力開発する役割を担うことになります。
そうして、自分以外の誰かの能力開発を担うことになった後、
その所作は、実は自分自身の能力開発のためだったことに気付く時期が
到来するのではないでしょうか。

結論:我々大人は、どのようなTPOででも、こどもの能力開発に関わることが、自身 の能力開発をも発展させ、充実した人生を過ごしたと、遅くとも死期に感じ入る存在なのだと思います。

起業家マインド⑤~カリキュラム【一例】


一例を挙げてみる。

テーマ:「起業に必要な6要素を理解する」

【6要素とは?】
1)経営資源(調達_ヒト・モノ・カネ)
2)市場調査(マーケティングリサーチ)
3)製造・仕入れ(生産・流通)
4)広告・宣伝(プロモーション)
5)販売(マーケティング)
6)財務会計

【グループワークを行う】
仕事を具体的に起こし、収益化する厳しさと面白さを疑似体験してもらう。
6要素をしっかりと把握しておくと、
例えば、予想外の出来事に対して的確な対応が可能になりやすい
ことを理解してもらう。
また、実社会では答えは一つではなく、多様であることにも気づいてもらう。
以上

起業家マインド④~意志力と想像力 

意志力と想像力

意志あるところに道は開ける」(There is a will , there is a way.) という言葉に中学生のときに出会って、そう信じてきた。

しかし最近になって、「頑強な意志力よりもたくましい想像力」の方が
道を切り拓くための本質なのではないかとも感じだした。

一つには、「想像力」(イメージする力)が「意志の力」よりも強力な点は、
「想像力」は感情の力を自ずから喚起するけれども、
「意志」は 意識的に知性から引き出すことがあるからだ。

たとえば、ぼくは将来日本の中で英国スコットランド地域で盛んだった
「起業家社会」
※イノベーションと起業家精神〈上〉その原理と方法 ドラッカー選書に詳しい
を、日本で実現したい。
この実現の意志を強くするより、 「起業家社会」が実現した姿を豊かに想像する方が、道は拓けるのではないか。
このことを日本国民100万人に訴える機会がもしあったとしたら、
ぼくの意志を強力に訴えるのではなく、実現した後の社会像を 想像力豊かに
伝えた方が訴えるだろう。

では、なぜ想像力は意志力より強力なのか。

☆意志の場合は、
その意志の反対観念がどうしても付きまとってしまう…
「必ず○○目標を達成する!」←「達成しないと、困る」
という反対観念がどこかに存在する。
☆想像の場合は、
「○○目標を達成した後、みんなに胴上げされている姿」
←「反対観念は存在しない。」

想像力をもって、「起業家社会」への健全な観念を持続すれば、
環境は 自ずと整うとイメージしていこう。

経験は最大の教師なり

「経験は最大の教師なり」

このことばはヘーゲルの言葉で、 ぼくが小さいころから家庭で言われていた言葉だった。
ちなみに、デューイは、「為すことによって学ぶ」 という表現を使った。

なぜ経験が最大の教師なのか。

ぼくの解釈では、人は自分の経験から決して 逃げることができないからだ、
となる。 親の教え、先生の指導、教科書、会社の上司などから 逃げる方法はいくらでもある。 しかし、自分が一度経験してしまったことからは逃避できない。
したがって、多くのさまざまな経験を積むということは、 最大の教師が自分の中に常駐しているようなもので、 心強い。

ところが、経験は確かに最大の教師ではあるが、 あくまでも「最大」なだけであって、最良、 最高とは限らない。 そうすると、経験だけでは不十分で、経験以外の何かからも 意識的に学習しないと、経験を最大かつ最良の教師に ならしめることは難しい。

経営者の多くは経験則で経営をするが、経験則だけでは 不十分で自分の中に経験以外の教師を保持するために、 自ら教えたり、教えられたりする環境を保持しないと、最良、 最高の域に達することはできないのだろう。

結局のところ、
経営者とは教育(能力開発)者でなければ ならないのかもしれない。

後世への最大の遺物とは?

「後世への最大の遺物」~内村鑑三著
を、また読んだ(笑)
これほど繰り返し読んだ書籍は他にないことは間違いない(笑)

「我々が後世に残すことができるもの」とは何かという話だ。

全人類は、種の保存を始めとして、次世代に 何かを遺すように遺伝子から命令されているはずだ。そういう本能があるはずだ。 この前提で、後世が繁栄するために 我々が意識的に遺すことができるものは、 金、事業、思想、教育(能力開発)の
4つはそうだろう。

これらすべては次世代への遺物として、たいへん 価値があると思うのだ。
とはいっても、大金、大事業、大思想、高尚な教育理念を 大半の人々は
世に遺すことができないで、逝ってしまう。 そこで、遺伝子はどんな人にでも遺すことができる何かを 用意しているはずだと考えた。

それは何なのか。

我々は、偉人とされる人物が遺した大金、大事業、大思想、 高尚な教育理念にたしかに感動するが、それらの遺物よりもっともっと感動し、大いなる影響を実際に受けるのは、「その人物の一生涯」に対してではないだろうか。

「理想を追求し、そのための何かを生涯において 一所懸命に実行した人物」を
後世に遺すことがは最高の遺物だと思う。

ゴールにより近付くこと

先週、ある本を読んでいました。

その本に登場したのは、新渡戸稲造氏の

「知識よりも見識、学問よりも人格を尊び、人材よりは人物の養成を」

ということばでした。

彼のことばは、

「知っている事柄よりも物事に対する考え方を重視する。
その人が学んで知っていることよりもその人の性格やタイプを尊重する。
人の才能よりは、 その人の人格の養成を」

という意味なのだと、ぼくなりに解釈しました。

彼がこのことばを発したのは、彼が50代後半だったそうです。
ぼく自身がこのことばの意味に得心するようになって、
このことばを人々に対して自信を持って発することができるようようになりたい、
と思いました。

今認識する現象によってのみ右往左往しない、
「先見の明がある人」「洞察力がある人」になっていたいです。

このゴールに確実に達するための妙案は今はないです。

とはいえ、
これからも、老若男女、さまざまな国の人々、 さまざまな宗教の人々などと接する機会を得て、彼らのさまざまな価値観に触れる。
そこからさまざまなことを学んで得心するようになれば、
よりゴールに近付いているのだと思います。

性格を変えたい?

人の「性格」とはどうやって決まるのかと、ふと考えていた。
「性格」というものは、心に反復して描いていたものが、
その描く方向に動きやすくなった「人の心の鋳型」のようなもの
ではないかと思った。

バスケットボールを例に取ると、誰でも一度や二度シュートの練習を しても、
シュートが上手に決まるようにはならない。
しかし、「シュート決めたい」という意思がある限り、何度も、何度もシュートの練習を 繰り返しているうちに、とくに努力しなくても、
「誰でも」自然とシュートが決まるようになってくる。
さらに反復して練習すると、「誰でも」身体はまっすぐゴールの方向に向けられ、 目線はゴールに定められるように自然となる。
当然、シュートはもっと決まるようになる。

このことと同様に、自分の性格を自分の思うように変えようと思ったら、
「性格を変えたい」という意思がある限り、その思いを心で反復することによって、 最初は自分で自分の思いをコントロールできなくても、変えることができるようになると思う。 そして、その反復の結果、とくに努力しなくとも、自然と自分の心を自分で コントロールできるようなるのだと思う。

反復練習は大事だとあらためて気付く。

起業家マインド③ アントレプレナー

アントレプレナーを英語表記すると「entrepreneur」で、
分解すると「entre」は「enter」と同義なので「入る、参加する」、
「preneur」は「take」と同義なので「取る、獲得する」となる。

したがって、アントレプレナーは「自ら入って行って獲得する人」 という
意味になる。なお、英日辞書では「起業家、企業家」と訳されている。
具体的には「自ら機会を見出し、その機会を捉え、その機会を活かす」
この意思を持つタイプの人物ともいえる。

物事に対して、難しいとか、できないとか、時間がないとかいう前に、
その事柄に対して「アントレプレナーシップ」を持って取り組んでいく
楽しさや喜びを味わう人生を送りたいものだ。

起業家マインド②

【サイエンティストとエンジニア】

「サイエンティストは解ける問題を解く。 エンジニアは解かなければならない問題を解く。」
このアインシュタインの有名な言葉を思い出した。
自分はどちらかというとエンジニアの側なのだ、と
アインシュタインは言いたかったと後世に解釈されている。
なぜ、自分がこの言葉を思い出したかの理由は分かっている。
実際に自分自身が解かなければならない問題が今あり、
その問題が解けないで悶々としているからだ(笑)。

アインシュタインの上記の言葉を、 ぼくなりに言い換えてみると、
「科学者、評論家は解くことができる問題を解く、 実務家、起業家は解かなければならない問題を解く」 となる。
起業家は今ある問題を解かないと困るから、問題を解こうとする。
しかし、その問題は誰かに提示されたものではない。

元はといえば、自分が抱いた問題意識を自分に提示した問題であることに気付く。 では、何のために、自ら問題提示をしたのか。
何らかの自己成長意欲の表出か?
何らかの自分の存在感の確保のためか?
これも、自分ではなぜかなのか分からない「問題」の一つだ
などと、自問自答してみたりしても…….良い知恵が浮かぶわけはない!
ぼくは今考えることから逃げているだけ……..その通り! そうだ!

もう一つのことばを思い出した。
「想像力は、知識より大切だ。知識には限界がある。
想像力は、世界を包み込む。」 という
…….アインシュタインの言葉も…….
とにかく、今日は今から論理の積み上げ思考を止めてみよう!
「想像力」を働かせて、世界を包み込んでみよう!(笑)
良い知恵が湧いてきますようにと祈りながら………