「日本はアジアに生きる国_最終回」



2010年02月22日記
「日本はアジアに生きる国_最終回」

直後、日本の親に電話し、留学プロジェクトは
頓挫したことを伝えた。

「これで肩の荷は下りた。遊びに行こう!」
(13歳の頭の切り替えは早いものです・笑)。

その後の滞在で、
二つの出来事が印象に残っている。

一つは、バスケットボールしている
現地中学生を見つけて、
飛び込みで仲間に入れてもらいプレーをしたこと。

そして、その翌日、ジャッキーチェンの映画(広東語)
を一緒に観に行ったこと。

もう一つは、チャイナタウンで老婦人に
現地少年と思われて声をかけられたこと。

「この重い荷物を自分のマンションの
部屋まで運んでくれないか?」
と頼まれ、その北京語をぼくが聞き取る
ことができ、
「いいですよ!」と北京語で返答できて、
実際に運んだこと。

その後、シンガポールへは、
旅行、立ち寄り、出張で20回は訪問した(2010年現在)。

ぼくにとって、シンガポールは第二の祖国だ。

大学生になったときに、
ぼくの北京語の家庭教師だったラオさん
を訪ねた。シンガポールで再会した。

その際の二人の会話は、北京語ではなく、
英語半分、日本語半分となった。
たいへん興味深かった。

2007年、アジアの一人当たりGDP一位は、
日本からシンガポールへと移った。

2010年、アジアのGDP一位は、
日本から中国へと移った。

もう日本はアジアで別格ではない。

これからの10年間、日本自身がアジア化して
真の共存共栄を目指すかどうかが、
アジアが持続的発展できるかどうかを
決めるだろう。

<了>

「日本はアジアに生きる国_PART10」



2010年02月08日記
「日本はアジアに生きる国_PART10」

◇あらすじ:
ぼくは、13歳のとき(1981年)、
シンガポールにおける自身の留学先(学校)を
単身で探しにきていた。

タクシーを拾って、教育省に向かった。
到着して、苦労の末、留学の窓口まで行き着いた。


「シンガポールの学校に留学したいが、
どうしたらよいか?」
と、尋ねた。

窓口の女性はニコニコしているだけで、
何も答えない。

何度か繰り返すと、「あなたは日本人ですか?」
と聞かれたので、「そうです」と答えた。

その後、奥に行って誰かと相談している風で、
2人で戻ってきた。

今度は、2人がゆっくりと、しかも熱心に
ぼくに話しかけたが、ぼくには2人が何を
話しているか、全く理解できなかった。

ぼくから英和辞典を差し出して、英和辞典を
通してのコミュニケーションが始まった。

「あなたは英語が話せないし、聞き
取れないので、シンガポールの学校に
留学することは不可能です。

外国人が英語を学ぶための学校なら
紹介できます」
と、宣告された。

<続く>

「日本はアジアに生きる国_PART9」

2010年01月31日記
「日本はアジアに生きる国_PART9」

ぼくは、13歳のとき(1981年)、父親のアドバイスで、
シンガポールにおける自身の留学先(学校)を
単身で探しにきていた。

チャイニーズYMCAにチェックインした直後、
ロビーにいると、アフリカ人の船乗りに
声をかけられた。

シンガポールは、アジア有数の中継港で、
途上国の船乗りがここに宿泊していた。

日本とはどんな国なのかを身振り、手振りで
一所懸命説明した。

みんな酒を飲んでいて、「日本人と会えて
うれしい!」と言って、ぼくにキスをしたり、抱きしめたりした。

同性から初めてされるキスと抱擁が
アフリカ人からとは、人生とは本当に
予測不可能なものだ。

ベッドに入った。

そのとたん、ベッドのウラに潜んでいた
蚊の大群に襲われた。

「安い宿だからしようがない」とあきらめて、
闘いながら、一夜を過ごした。

翌朝、タクシーを拾って、教育省(日本の
文部科学省)に向かった。

<続く>

「日本はアジアに生きる国_PART8」


「日本はアジアに生きる国_PART8」

当夜、日本に自宅には電話を入れておいた。
「無事到着したが、このままだと宿泊費が
足りなくなる」
と伝えたら、

「翌朝から安宿を探すしかないな。何とかなる。
がんばれ。」
と言われた。

自分が野宿する光景すら浮かべたが、
疲れていたので、寝入った…..。

翌朝、部屋の電話が鳴った。

「江藤ですけど…板庇くん?」
と、シンガポール在住の父の友人からだった。

「ホテルが予算を上回っているみたいね。
チャイニーズYMCAに行ってみなさい。

あそこは安いから。」
と言われた。

さすがの父も心配になって、手を回して
くれたのだった。

早速タクシーで向かった。
1泊2,500円だった。

早速、チェックインして、5泊分を前金で払った。

手元に2万5千円ほど残った。

「これで、助かった!
早速、留学の交渉に文部省へ向かおう!」

<続く>

「日本はアジアに生きる国_PART7」


「日本はアジアに生きる国_PART7」

不安な気持ちで一杯だったが、タクシーにはだまされず、
ホテルには無事に着いた。

チェックイン時に、もしかして安くならないかと、
本当に 1泊 1万2千円 かと英単語を並べて
尋ねたが、
「そうだ。空港で言われ料金だ」と、断言された。

とにかく、部屋に入った。
そのとたん、ベルがなった。

覗いてみると、20歳くらいの男がニコニコして
立っていた。
「あやしいそうな男ではないな….」と判断して、
ドアを開けた。

「ユー ニー ガールフレンド?」と、繰り返す。

「あっそうか。彼はホテルの従業員で、親しげに
話しかけてきているんだ。
ぼくにガールフレンドがいるかどうか聞いて
いるんだ」と思ったので、

「ガールフレンド イン ジャパン!!」と
威勢よく答えると、

「ノー. ヒア イン シンガポール? 」
と言うので、
「ノー. マイ ガールフレンド イズ
 イン ジャパン!!」

このやり取りを繰り返した。

その後、彼はあきらめたような顔をして、
「グッ ナイ」と言って、部屋を出て行った。

彼は一体「誰」だったのか?
今の大人になったぼくにはもちろん分かるが、
13歳のぼくには想像もつかなかったのだった….。


<続く>

「日本はアジアに生きる国_PART6」


2010年01月19日記
「日本はアジアに生きる国_PART6」

シンガポールの空港に到着した。

京都からの大阪空港までの交通費や食費など
がかかり、所持金は5万円になっていた。

「今日から6泊7日で5万円。
一泊平均は絶対、絶対、5千円以内でないと、
お金が尽きて、帰国できない….。」

入国手続きを終えて、「ホテル予約」の
カウンターへ直行した。

「一番安いホテル!」と、英会話の本を見ながら、
叫んだ。「OK!」と言って、案内されたのは、
1泊 1万2千円だった。

そこから、辞書と筆談を駆使して、
「本当の」最安値を案内するよう訴えたが、
「空港のホテル予約のカウンター」では、
最安値のホテルは、「本当に」1万2千円だった。

もう夜中だったこともあり、そのホテルを「一泊だけ」
予約してもらい、タクシーで向かった。

ここで、翌朝の所持金は、3万5千円ほどしか
残らないことがはっきりした。

「もう留学する学校とアパート探しどころでは
なくなってきたなあ…..。
13年間の人生、最大の試練が今来たなあ……..。」
と、車内でつぶやいたことを覚えている。

<続く>

「日本はアジアに生きる国_PART5」


2010年1月5日記

「日本はアジアに生きる国_PART5」

「シンガポールに留学する学校とアパートは、
自分で見つけてきなさい。」と言って、
航空チケット会社の電話番号を渡された。

問い合わせしたら、
最安値が9万円(シンガポール航空)
で1週間FIXチケット(変更不可)だということが判明した。

その後、自宅を出てから帰宅するまでの
シンガポール1週間旅行の総予算15万円を父からオファーされた。


「差し引きして6万円で1週間滞在できるのかなあ….」
と少しは不安になったが、
屋台で食べれば一食300円くらいで済むことは
知っていたので、楽観的に承諾した。

13歳で、一人で、ホテル予約なしに、
知り合いがいない、日本語が通じない、
外国に1週間行くことが決まった。

もちろん、生まれて初めての冒険だった。

<続く>

「日本はアジアに生きる国_PART4」


2010年01月05日記

※板庇が中学2年生のとき、1981年の体験談です。

「日本はアジアに生きる国_PART4」

シンガポールには一度家族旅行で行ったことがあり、
大好きな場所ではあった。

しかし、留学するとなると、あれこれ考えないといけない。

母親は、
「まだ中学2年生で義務教育期間中なので、
高校生になってから留学したら、どうか」
と言った。

父親は、
「義務教育中かどうかと家庭教育の方針は別問題。
鉄は熱いうちに打て。
あけるが社会に出るころには、世界経済の中心は
アジアになっている。日本にこのまま留まっていたら、
将来、アジア人としてアジアで活躍できないタイプに
なってしまう。すぐに、留学しよう!」

この一言で、決まった。

「13歳にもなれば、昔であれば元服(男子の成人のこと)の年齢だ。
留学する学校とアパートは、自分で見つけてきなさい。」

と言って、航空チケット会社の電話番号を渡された。

<続く>

「日本はアジアに生きる国_PART 3」


2009年12月22日記


中学2年生のころ、
ラオさんから中国語を週2回の頻度で
学び始めた。

日常会話の読み、書きには数ヶ月で何とか
慣れてきたが、話すのはたいへんだった。

発音がたいへん難しく、一つの単語を何十回と
発音しても、ラオさんからOKをもらえなかった。

発音練習でふらふらになってきたこともあって、
気晴らしに英語も同時に学びましょうという
ことになった。

英語は、中国語と比較したら、文字は26文字
しかないし、発音は格段に楽だった。

勉強の合間に、ラオさんは東南アジアの人々は
日本や日本人をどうみているかという話を
よく語ってくれた(1981年時点)。

日本は超大国で、日本人は勤勉で、憧れの
対象だった。
「日本に学び、追いつくのが我々の夢だ」と、
眼をキラキラさせて語ってくれた。

ある日、
「ぼくと二人で、中国語と英語をいくら一所懸命に
学んでいても、おのずと限界がある。
あけるくんは、まだ若い。留学したらどうか?

君と同じ中学生が英語と中国語を自由に操る国は、
世界にシンガポールと香港しかない。

ただし、香港は標準語の北京語ではなく、方言の
広東語を話すし、第一治安がよくない。

ぼくの母国のシンガポールに留学したらどうか?」

早速、この話を自宅に持ち帰った。

<続く>

「 日本はアジアに生きる国_PART 2」


2009年12月14日記

「 日本はアジアに生きる国_PART 2」

前号では、京大の留学生会館に、
中国語の先生を探しに飛び込み訪問した、
ところまで記した。

何人かの留学生に尋ねてみたところ、
シンガポール人留学生の
ラオ(Lau/老)さんを紹介してもらった。

彼は、中学生のぼくの依頼に快く応えてくれた。

「英語でなく、中国語から始めるとは
進歩的な考え方ですね。
では、中国語の標準語(北京語)を一緒に
学びましょう。

ただし、中国語の文法は日本語とは異なり
英語と同じなので、できるだけ日本語を
通さずに、英語を通して学んでいきましょう。」


ラオさんは6言語
(英語、北京語、マレー語、福建語、
タミール語、日本語)に通じた奇才だった。



<続く>