「教育」=「EDUCATION」とは?

「教育」に関する所感を記します。

まず、ぼくの柄に合うか合わないかは棚上げして(笑)、
「教育」という日本語の解釈から入ります。
「教育」とは文字通り「教え育てる」という意味です。
「教育者」とは「教え育てる人」という意味になります。

ぼくは、小学生のころから「教育(者)」ということばに
何となく違和感を抱いていました。

その後、数十年が経って、ある知的な経営者と出会って議論していて、
その違和感の原因がわかりました。
まさに氷解した瞬間でした!!

「教育」は元来、明治初期に森有礼(初代文部大臣)や福沢諭吉ら西洋通が
英語の「EDUCATION」を訳して日本語にしたことばだったのです。
この訳語が良くなかったのです
国家主義体制だったので、「教え育てる」という日本語にせざるを 得なかったのかもしれませんが….

「EDUCATION」の原語(ラテン語)は「EDUCE」です。
この意味は、「潜在する能力を引き出す」と
「演繹する」(一般的な問題から特異な結論を導くこと)なのです。
この意味を「人の教育」に当てはめると、
前者は「対象者の潜在能力を引き出す」に なりますし、
後者は「対象者の現わす言動から、潜在している特異な能力を見出す」
となると解釈 します。
「EDUCATION」ということばは、もともと「個々の能力を引き出す、開発する」
という意 味だったのです。
つまり「教育」ではなく「(潜在)能力開発」と訳すべきだった、
に尽きるのです。

もしそう訳されていれば、
教育者、教師や先生と呼ばれる人は「能力開発者」
教育観は「能力開発観」
教育政策は「能力開発政策」
学校は「能力開発センター」
文部省(教育省)は能力開発省
教育理念は「能力開発理念」
人材教育は「人材能力開発」
教育産業は「能力開発産業」
という日本語で表記されていたことになるのではないでしょうか。

「うーん、まだピンとこない」という方のために、
ここからもっとしつこく続けますと
(この瞬間、読者満足を全く考慮していない 何ともいえない自由を感じている一方的執筆者としての板庇がいます…)
「親の自分のこどもへの教育」は「親の自分のこどもへの能力開発」
「教育施設」は「受講者の能力開発を促進するための施設」
「教育資金」は「能力開発機関が自分のこどもを能力開発してくれることに
対する対価を支払うための資金」
「教育立国」は「国民個々の能力開発に最も重きを置く国家」
になると、ぼくは解釈します。

さらにしつこいですが、
最後に一般用語の「教育」を「能力開発」に換言して記します。
以下は、人間界の法則に近いと思っています。
すべての人間は、この世に生誕して、最初は一方的に能力開発され、
次にさまざまな 場面で誰かを能力開発する役割を担うことになります。
そうして、自分以外の誰かの能力開発を担うことになった後、
その所作は、実は自分自身の能力開発のためだったことに気付く時期が
到来するのではないでしょうか。

結論:我々大人は、どのようなTPOででも、こどもの能力開発に関わることが、自身 の能力開発をも発展させ、充実した人生を過ごしたと、遅くとも死期に感じ入る存在なのだと思います。